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大阪高等裁判所 昭和38年(ネ)1590号 判決

控訴人(被告)

江洲運輸株式会社

代理人

信正義雄

被控訴人(原告)

代表者

法務大臣・高橋等

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

控訴代理人は「原判決を取消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人は主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張、証拠の提出援用認否<省略>

理由

当裁判所は被控訴人の本訴請求を理由のあるものと認めるものであつて、その理由は、控訴人主張の示談契約の成否、その内容及び効力の点を左記の通り補充、訂正するほか、原判決理由記載に同一であるから、右理由をここに引用する。

<証拠>によれば、昭和三二年四月二五日三重県北牟婁郡長島町仁愛病院において、同所入院中の被害者大東貞男と控訴人の代理人たる取締役中川太重との間に、本件事故による治療費その他慰藉料等の一切を自動車損害賠償保険金により支払する旨、及び爾後本件に関しては双方何等の異議要求を申立てない旨の約定を記載した示談書による示談契約(右契約以前に明確な紛争状態はないが、それでも双方当事者の主張する主観的、客観的要求を互に譲渡調整する合意として、和解に準ずる合意たる性質を持つもの)が成立したことが認められる。

(二) 被控訴人は、右示談書は例文であること。及び自動車保険金受取の便宜のための形式上のもので、実質的合意を伴わないことを理由として、右示談契約は不成立である旨主張し、<証拠>によると、右示談書は、事故の場所、被害自動車の種類及び示談成立の日の三点を、右成立日にペンで補充した以外は、すべて控訴人において予め複写紙によりその数通分の書面内容を作成準備して行き、前記病院において被害者大東に、その後同人の雇主田中建材有限会社の代表者田中喜蔵に立会として捺印せしめるのみで完成した書面であり、右書面に明示された前認定の示談条項についても、それが控訴人の準備した原案通りであり、また右示談書の捺印にあたり、被害者大東と前記中川との間において、早く示談をすれば早く自動車保険金が取れる旨の談話が交換された事実が認められるけれども、かような事実が存するからといつて、直ちに前記示談書に記載された示談条項が例文であること、又は自動車保険金取得の手続的便宜のためにのみ作成された無内容ないしは仮装の書面であつて、全然実質的合意を伴わぬものであることを、たやすく肯定することはできず、その他被控訴人の全立証によつても、右被控訴人主張事実を確認することはできないから、右示談契約は、一応その表示された通りの文言の下に成立したものと認めるの外はない。

(三) 次に被控訴人は、右示談は一切の要求をしないという外形上の文言に拘らず、保険金以上の損害が生じたときは、これを請求し得るという留保がなされていた旨主張するので按ずるに、右主張に副う<証拠>は<これに反する証拠>に対比して軽々に措信することができず、他に右留保の約定の存したことを認むべき資料がない。却つて<証拠>に徴すると、本件事故当日たる昭和三二年四月一六日の医師の診断では、本件事故に因る被害者大東の左腕骨折は治療約一五週間の安静加療を要するものと認められ、前記示談当日においても、右大東自身としても自已の負傷を治療約一〇〇日前後を要する程度の比較的軽微なものと考えていたので、自動車保険の最高額一〇万円で大体損害を補填し得るものと予想していたことが認められ、右の状況であつたので、損害が保険金額を以て到底償い得ない程度に上るかも知れないこと、及びその場合の加害者に対する措置等については殆んど全く念頭になかつたことが推認し得られる。そうすると、本件示談につき当事者間に表示された留保の約定は、その存在を肯定することができず、被控訴人の主張は理由がない。

(四) 次に進んで被控訴人の錯誤の主張について見るに、本件事故による被害者大東の損害は前掲原判決理由引用通りであつて、本件示談によつて取得すべき自動車保険金一〇万円の七倍以上に達したため、若し本件示談当時大東が右事実を誤認していたと仮定すれば、恐らく本件示談条項を以て満足し得なかつたことは、極めて見易いところではあるけれどど、<証拠>によると、本件負傷が予想外に重大であることが判明したのは、事故後一ケ月以上を経た後であつたことが明らかで、被害者大東は示談当時そのことを全く予知せず、従つて損害が前認定のように多大であることは認識外に在つたのであるから、右の事情は意思決定の基本条件下にはなく、同人の具体的意思は、比較的軽微な損害についての賠償請求以外に出でず、従つて右の意思の下における示談金額一〇万円は一応当時判明していた損害と均衡を保つていたものと解すべきであつて、意思と表示との間に錯誤の介在余地は考え難く、しかも示談の性質上右の意思の多少の譲歩、変更をも予定するものである限り、猶更錯誤の存在は認め難い。従つて被控訴人の錯誤の主張も採用するに由がない。

(五) そこで被控訴人の条件の存在の主張について考える。本件のような加害行為による負傷又は疾病に因る損害の全貌は、加害行為の当初ないし、その経過の早期においては、当事者は勿論、専門医師においても的確にこれを把握することは容易でない場合も多く、このことはこの種の損害の性質上本質的な特徴と考えることができる。従つて、この種損害の早期算定には、右の理由から招来される必然的制約が伴うものと考えねばならない。この事情は、損害賠償の合意の成立とその解釈についても、これを当事者の合理的真意を探究し、これに合致せしめる必要から考えて、当然に斟酌せらるべきであつて、右の合意が、示談ないし和解的譲渡や権利放棄を予定するから、さきに一旦合意が為された以上は、その合意が、その後日時の経過、客観的事態の変動に伴い確認し得るに至つた救済、補償を要する損害の全貌と対比して見ていかに著しい不均衡、不相当の結果を生じても、右合意を動かし得ないものとし、これより生ずる不合理は常に権利者の権利放棄ないし譲歩に根拠付けられるものと解し、この意味で右和解的拘束力の中に予定されたものとしてこれを看過するということは正当ではない。之を要するに、本質的に当事者に予測し難い経過をたどることのある将来の損害について、現在その救済、弁償の合意をするについては、その性質上、絶対的確定力を常に認むべきではなく、予期されたその通常の経過に反した損害の増加、併発等の異例事態が生じた場合(しかもその損害が相当因果関係の範囲内にある場合)は、その結果的な錯誤による不利益は被害者よりもむしろそれに対する根本の原因を与えた加害者に、これを負担せしめる配慮を加えることを考えなければならない。さもなければ、かような有責な結果を無視して顧みない絶対的拘束力を求める示談又は和解については、反公序良俗性を認める要請に迫られるが、一般に早期の賠償契約ないし和解は、それが適切でありさえすればこれを勧奨すべき理由はあつても、否定すべき理由はなく、問題は、将来の協定し難い権利に対するあえて確定した給付義務につき、常に絶対的拘束力を認めることの当否に存するのである。

ところで本件につきこれを見るに、控訴人は本件事故後一〇日を出でない日に、被害者がその負傷を比較的軽微なものと信じている事態において、早急に示談契約を為し、自動車保険金以外の自己の負担を免れようとした事迹は、前認定の事情経過に徴して容易に認め得るところであるから、かような全損害の正確に把握し難い状況下における早急の示談において、しかも約定された比較的少額の賠償金額以外は、将来一切の請求権を放棄する趣旨の約定を結んだ場合には、右契約自体において、予想外の将来の損害の負担、措置につき格別に明示の特定を為した場合でない限り、かような約定は、賠償の対象たる損害の状況が、その当時明らかであり、かつそれが当時の見透しの通りに推移することが暗黙の前提とされたものであるから、もしその損害につき、その当時当事者の確認しえなかつた著しい増加、変容、その他著しい事態の変化が爾後に生じた場合には、右の契約特に権利放棄の約定には、かような事由を原因として解消せしめられる趣旨の条件即ち解除条件が附せられているものと解するを以て、当事者の合理的意思に合致するものと考える(被控訴人は、停止条件を主張するけれども、これと解除条件とは、法律上の見解の差に過ぎないから、被控訴人の主張の範囲内に在るものである)。

なお本件においては、<証拠>によれば、控訴人は被害者大東の雇主田中建材有限会社の代表者田中喜蔵に対し、「事情が事情故、労災の手続をおとり下さいましても已むを得ぬ事かと存ぜられます故、貴殿手許にて然る可くお取計ひ下さいます様御依頼申上ます」旨の文書を送つていることが認められ、右文言は、事態によつては、示談文書に明示された権利放棄も無条件には拘束力を持ち得ないことを承認しているものと解することができ(右認定に反する<証拠>は措信できない)、前説示の当事者の合理的意思を裏書にしているものということができる。

そうすると本件において、さきの示談契約は、その成立後において、その対象とされた損害が、当事者の示談当時の算定に反して、前段で認定されたような大巾の増加を示すことがほぼ明瞭になると同時に、右示談契約中の権利放棄の約定は解除条件の成就により当然失効したものと認められ、その時期は、前掲<証拠>を綜合すると、被害者大東は昭和三二年七月二一日一旦退院後、さらに治療を要する状況になつて同年八月二〇日再入院し、その後再手術を受け昭和三三年六月二三日まで入院加療したが、なおその後機能障害を残すことになつたものであるが、右再入院に先立つ昭和三二年八月中旬頃控訴人に対して再々損害の填補を要請し、その使用主の代表者たる田中喜蔵においても労災保険金請求の已むなき事情を控訴人に通知し、これに対し控訴人より前段認定の回答を為していることが認められるので、遅くとも右回答のなされた昭和三二年八月中旬頃までに、大東の負傷の予期以上の重大性、損害の予想外の増加がほぼ明白になつていたものと解せられ、この時期を以て本件示談契約中の権利放棄条項は失効したものと認むべきである。

そうすれば右示談契約の存在を前提とする控訴人の抗弁は、その余の点につき判断を加えるまでもなく失当として排斤を免れない。よつて被控訴人の請求を認容した原判決を相当とし、控訴を棄却すべきものとし、訴訟費用につき民事訴訟法第八九条を適用して主文の通り判決する。(裁判長裁判官岡垣久晃 裁判官宮川種一郎 奥村正策)

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